2015/05/16

旧ユーゴスラビア紛争

バルカン地域を研究したり、バルカン出身の人々と話をしていると、その問題の根深さをいつも感じます。

バルカン半島と言うと、日本人はよく「ああ、ヨーロッパの火薬庫か」という反応をします。
確かにナポレオン戦争後から第一次大戦前後にかけてヨーロッパ全土で民族主義・ナショナリズムが高まり(1848年には一度ヨーロッパ全土でほとんどすべての革命が鎮圧されましたが)、
オスマン帝国の衰退とそれに伴うバルカン半島での独立運動が盛んになった時期もありました。同時期のオスマン帝国は"Sickman of Europe"と呼ばれ、その衰退とそれに続く民族主義運動はよく"Eastern question"と呼ばれます。
結果的にフランズ・フェルディナンド大公の暗殺とそれによる第一次大戦と、火薬庫は爆発してしまったわけですが、
その後のバルカンの政治を知っている人はあまりいないのではないでしょうか。
日本の歴史の教科書でもほとんどそれ以降は記載がありません。

ちなみに第二次大戦中はナチスがクロアチアに侵攻し、「ウスタシャ」というクロアチア版ナチを結成します。
この時代に民族浄化が行われ、何十万人ものセルビア人が殺されたと言われています。
第一次大戦後にはすでにユーゴスラヴィアの前身が存在していましたが、行政は主にセルビア人が中心であったため、クロアチア人の反感が強かったのです。
逆にセルビアでも反ナチス団体「チェトニック」が結成され、クロアチア人やボスニア人を迫害していました。
(チェトニックに関しては第二次大戦後一度は散り散りになりましたが、旧ユーゴ紛争で再興します。ボスニア人の若手映画監督Jasmila Zbanic(ヤスミラ・ジュバニッチ)がGrbavica(グルバヴィッツァ)という映画で悲劇を見事に描いています。)

この歴史の部分は後に各国の政治レトリックに利用されることになるため、この史実は重要です。

ところで、あまり詳しくない人でもティトーぐらいは知っていると思います。第二次大戦後に頭角を表し、ユーゴスラヴィアを一つの社会主義国家にまとめあげた凄腕です。
今でも、クロアチア人やセルビア人、ボスニア人などにティトーのことを尋ねると「当時は良かった」、「彼はバルカンの父のような存在だ」と口を揃えて言います。
実際には社会主義時代から失業や汚職などは蔓延っていたのですが、一般的に今日のバルカンでは当時の社会主義時代をゴールデン・エイジとして恋い焦がれる風潮がかなり強いです。

彼の死後、バルカンではまた民族主義が高まります。始まりはコソヴォです。

コソヴォはセルビアとアルバニアに挟まれた、非常に敏感な土地にあります。
なぜ敏感かというと、歴史的にオスマン帝国の影響が色濃いアルバニアに対し(アルバニア人は今日でも約60%がイスラム教)、セルビアは正教会だからです。
この微妙な関係が爆発した事件が1389年に起こった「コソヴォの戦い」です。
これはオスマン帝国がアルバニアを超え、コソヴォに侵攻し、当時のセルビア王国と戦った出来事のことです。
結果セルビアは負けますが、これによって西側もイスラム教のバルカン侵攻を恐れ、十字軍を送ることになります。
また、オスマン帝国とセルビア王国が戦った土地であるコソヴォはセルビアにとっての聖地となり、それ以降セルビア人にとって特別な土地になります。
その後コソヴォではアルバニア人(オスマン帝国の影響を受けたイスラム系)の入植が進み、現在でもその人口の90%以上がアルバニア系で、セルビア人は少数派となります。

話は現代に戻り、ティトーの死後民族主義がまた高まり始めていたと話しました。
セルビアではミロシェヴィッチという人が大統領に選ばれます。
彼はかなりのナショナリストで、セルビア民族主義政策を推し進めます。
彼は1989年にコソヴォを訪れ、「セルビア人の少数派がアルバニア人に迫害を受けている」という趣旨のスピーチを行います。
この1989年というのはちょうどコソヴォの戦いから600周年にあたり、これは愛国主義を高める決定的要因だったことに違いはありません。
案の定、こうした背景により民族主義で結束したセルビア人たちは大規模なデモを行い、ユーゴスラヴィア大統領を引き摺り下ろし、ユーゴスラヴィア軍をセルビアが牛耳ることになります。
これで「コソヴォを制圧せよ」という動きが本格化するわけです。

ユーゴスラヴィアという国と軍隊がセルビア人に牛耳られた時点で他のバルカンの国々はもちろん恐々とするわけです。
「次はうちにセルビアが攻め込んでくる」という考えになるのも当然です。
まずはじめにその動きをはじめたのがスロベニアです。
スロベニアは1991年半ばに軍を動員させ、一足先に独立を宣言します。
地理的距離から、紛争はたった10日で収束し、独立が達成されます。

次は同じくナショナリストであるトゥジマン大統領が選出されたクロアチアです。
スロベニアと異なり紛争が泥沼化した原因は、クロアチア国内にセルビア人少数派の居住地区があったことです。
これらの地域をもちろんクロアチアは編入するために軍を動員しますが、一方セルビアは「少数派の保護」を名目にこれらの地域への影響を強めていきます。
ここで最初に述べた「ウスタシャ」というナチス集団を思い出して欲しいのですが、
セルビア人はクロアチア版ナチスに迫害を受けたという歴史を持っており、クロアチアが独立をして軍隊を作り上げるという行為が、セルビア人にとって「ウスタシャ」を彷彿させるわけです。
よって、ミロシェヴィッチ大統領をはじめセルビア人は「クロアチアがまたナチスを結成して我々を襲おうとしている」というレトリックになってしまうわけです。

結果的に、セルビア人少数派がクロアチア国内に建国した「クライナ共和国(勝手に独立を宣言して、他のどの国も国家として承認しませんでしたが)」はクロアチア軍による「嵐作戦」という軍事作戦によって一掃されてしまいます。
ちなみに、この嵐作戦を指揮したクロアチア人陸軍中将アンテ・ゴトヴィナの戦争犯罪裁判の判決は2年前に下り、無罪放免ということになりました。
ちょうど彼の判決が出た時に私はザグレブにいましたが、街中がお祭り騒ぎで、EU加盟の祭典よりも盛り上がりを見せていました。
彼はクロアチアでは「英雄」と見られ、セルビアでは「戦争犯罪者」とみなされています。この認識の違いが現在でも両国の確執を広げていると言えます。
国際司法裁判所の判決ではゴトヴィナは無罪ということになりましたが、その判決は完全なる潔白というよりも、証拠不十分による無罪といった面が強い点も、セルビアの反感を買うことになりました。
(ちなみに彼はいまマグロ養殖の会社を経営しており、日本との関わりも強めていますが…まあこれ以上は控えておきます)

クロアチアで紛争が起こった後、ボスニアでも同じことが起こります。
ボスニアはもっと民族が入り混じった国なので、もっと状況が複雑になります。
特にセルビア人がボスニア人(イスラム系)を大量に虐殺した「スレブレニツァの虐殺」は国際司法裁判所が世界で初めて「ジェノサイド」との判決を下した事件です(ホロコーストの後)。
法律的にジェノサイドと判決を下すのはかなり厳しい条件を満たさなければならないのですが、この場合「特定の民族(ボスニア人)を計画的に絶滅させようとする意図と、実際に虐殺を行った事実が証明された」ということになります。
計画的に民族を絶滅させるということは、ボスニア人を狙って殺害する、あるいはボスニア人女性をレイプしてセルビア系の血筋を生ませるなどといったことが実際に起こったわけですが、それを証明するのは非常に難しいです。
まずボスニア人を「根絶させる」意思というのはユダヤ人収容所のような組織立ったものが存在していたことを証明しなければ、単に多くのボスニア人が殺されたというだけではその「意図」は証明されません。
そしてレイプにしても、「私はレイプされた」と名乗り出ることのできる女性がとても限られている上に、その事実を公にすることで差別を受けるという「セカンド・レイプ」も存在します。
日本でも慰安婦問題で最近また隣国とやり合っていますが、バルカンに関しては、たった20年前の出来事なのに、それでも実際の数を把握し、和解し、支援をすることは非常に難しいのです。

ちなみに、現在でもボスニアの政治はとても変わっています。
セルビア人少数派の「スルプスカ共和国」という自治体がボスニアという国に存在している上に、ボスニア・ヘルツェゴヴィナという国には憲法が民族別に何個もあり、西側諸国の監視下で大統領もボスニア人、セルビア人、クロアチア人によるローテーションになっています。大臣は100人以上います。
ここまでへんちくりんな政治制度はボスニアくらいでしょう。

このスルプスカ共和国は紛争中にボスニア人女性がセルビア人によって被害を受けたということを認識していません。
認識していないので同地域では被害者支援も行えるはずがありませんし、それにより国内での民族間の確執は広がるばかりです。
どの国も似たような歴史の繰り返しです。

いままでの説明は主に「西側」に立った説明です。
アメリカが仲裁したデイトン合意によってボスニア紛争は終結しましたが、西側諸国は一貫してセルビアを非難しています。
「すべての悪はセルビアにあった」と述べる人も少なくありません。
ただ、私はそれもそれでおかしいと思うわけです。
確かにミロシェヴィッチを始めセルビアの民族主義が直接の引き金になったのは間違いありませんが、
アンテ・ゴトヴィナが「英雄」として扱われていることには違和感を感じるし、国際司法裁判所の判決が必ずしも正義ではないということは誰でも知っています。
また、当時はそれぞれの国でマイノリティが政治に参加できるようなシステムが構築されていなかったのも確かです。

どちらが正義か、誰が英雄かなんて、不毛なように感じます。
こんなことをいうとクロアチア人は「セルビアが侵攻してくるのを指加えて待っていろというのか、これは祖国の防衛戦争だ」と熱くなります。
それもそうなのですが、国の安全保障に民族主義が重なると、問題は複雑になります。
今でもバルカンではこの問題は非常に敏感な部分なので、あまりこういうことを彼らの前では言わないようにしています。

現在、クロアチアで最も激しい紛争が起こった、少数派セルビア人が多く住むブコバルという町では、クロアチアの老兵が署名を集めて、看板や交通表示のキリル文字の廃止を求めています(クロアチア語とセルビア語はほぼ同じですが、クロアチア語はアルファベット、セルビア語はキリル文字を使います)。
「キリル文字なんか、見たくねぇ」という単純なものなのでしょうが、いかに民族的な対立が根深いかがわかるでしょう。

バルカン問題を見るたびに、「ナショナリズム」とは一体なんのためのものなのか、よくわからなくなります。